藍を種から育て藍染めを楽しみ、身近な草木から自然の色を染める。藍や草木染めの染色の基礎を知り・学び、創る喜びを共に。

チャンチン入荷しました

チャンチン入荷しました

ワヤンさんが、チャンチン持参しました。でも、今回は銅主体で真鍮は2箱。面倒くさいからこれ取り扱いたくないといったんです。郵便局までは出かけられないとも。

しかし、認知症のお母さんの介護で思うように
仕事ができないみたいだから協力することにしました。
それにabiちゃんも結婚したみたいだし、今までの経緯を
レポート式で書かれたら動かざるを得ません。

チャンチン3


少し価格が上がってまして、
もし御入用の方がおりましたら、
ご連絡してください。
2セットに限り、従来通りで。



そこでかなり考えていたのですが、
蝋もあるし、私自身も使おうかななんて考えました。

みつろう


ろうけつ染めを初めてしたのは、確か小学校3年生くらいの時か、「柿食えば鐘が鳴る鳴る法隆寺」ののれんを制作したのを覚えています。化学染料染めでしたが、自分ではかなり気に入っていたのを覚えています。



私のイメージとしては、バンダナにするつもりで、
もちろん自分用にします。

えみちゃんが、波動水というのがあるのは知っているけど、
ものにも入れられるの?と尋ねるので、入れられると答えます。

物質はエネルギー、エネルギーが物質になるというのは、
一般常識でこれがそうだといえば「ああ」と必ず答えるはず。

泥藍抽出した沈殿藍を乾燥させると、粒子が荒くなり、
溶解剤も販売されているけど、煮て溶解させる。
でも私は、ちょっとおまじないするだけだから
そんなものは使わないし、私がこそっと販売する
ヘンプのストールは麻の風合いではなくなる。

ついついペラぺラと話してしまう。
ほんとに不思議な子です。



今現在講習のための講習を指導し始めた子には、
人が思わず手に取ってしまうもの、思わず買って
しまうもの、を表現させます。

AI時代の管理された体制の中で、
逆行するようだが生きるためです。

ここで公言したからには、必ずそうさせる、
だから教えるのはこの子だけ。

チャンチンの使い方を指導しないというわけではなく、
人それぞれ個性があるので他の人だったらまた違う
イメージング作りをするのです。



ワヤンさんに電話して、現地ではどう扱っているか
尋ねていろいろ相談していたら、なんとディサービス
からお母さんが戻ってきちゃって。

アルカリで蝋を落とす予定なので、藍染めのみです。
そうじゃないと、灰汁媒染したように白っ茶けちゃうから。

夜、詳細をメールで送ってくれたのですが、
廃液は濾さなければなりませんね。

自分のものは、下書きをするか、
そのまま書いていくか、まだ考え中。



若いころ、実家の近くに越してきたある女性と仲良くなりまして、
大変親しくさせていただいておりました。

その女性のお母さんもまた近くに越してきまして、
入れ替わりにその女性は金沢に帰ってしまい、
しばらくお母さんのことよろしく頼むなんて言われ、
週に一度ほどの割合で様子をうかがいに行っていました。

そのお母さんはお寺の出身で貧しかったために
東の廓に売られたそうです。

行くたびに昔話でしたが、
初めての世界に興味津々でした。

しかも、芸子を上がってから下宿をし、そこに下宿した人たちが
なんと有名人でして、着物こそなかったけど、学生時代に焼いた
焼き物がたくさんあるではありませんか。

一つずつ説明してくれて、
それから少しずつ焼き物収集が始まりました。



挙句の果てに、そこにお座りなんて言われて・・・

三味線、お太鼓、小唄、端唄に踊りを披露してくれて、
やってごらんなんて言われて、はい、真似してみました。
しかし、まったくできません。小唄ぐらいでしょうかね。



亡母はハイカラさんで、洋楽器など隠れて
お小遣いで買っては弾いていたようですが、
亡祖父に見つかると、斧でたたき壊されたようです。

それでも隠れて買っては川岸とか田んぼなどで
弾いていたみたいです。よほど好きだったんですね。

ですから、亡母は三味線、踊り、民謡の名取を持っていまして、
今考えるとお友達には竹山さんのお弟子さんもいましたが、
わたしはまったく興味もわきませんでした。

弟子入りさせられそうになったときは、逃げ出しました。

ですから、楽器は苦手で、
三味線は二上がりのものしか弾けません。

どちらかというと劣性遺伝のよううです。
血が濃いがために、亡従兄と私だけが血が汚れています。



また、近くには加賀前田藩のお殿様の子孫がおり、
スーパーでよく奥さんとご挨拶することが多かったんです。

それに、こちらで親しくさせていただいた亡バジルの先生ですが、
加賀前田藩のお抱え医師の系統でのちに紀州藩お抱えとなった
ようでその後江戸暮らしで、東京の病院を売って千葉にとか。

引っ越してきてからのことですから、20年近くお付き合いさせて
いただきましたが、透析しながら失明もしていたので、また東京
に越してしまい、その後電話だけのお付き合いでしたが、もうお二
人とお会いできなくなりました。



紀州と言えば和歌山ですが、
千葉の房総のほうの地名と
一致する場所が多いでしょ。

紀州も関係するんですね。
私も子供のころは、京ことばを
話していましたから。

今この辺で京ことばを話す人たちは、
もういませんね。私も忘れましたから。



とにかくこのお母さん金沢を出て、最初は京都の芸子仲間が
ろうけつ染めをしていたので、そこを頼りにしばらくはろう
けつ染めをしていました。

胸を悪くされて、ろうけつ染めをやめて千葉に着た次第ですが、
一年に一度必ず京都まで通っていました。

かなりの着物を持っていたので、いろいろ拝見
させていただき、もちろんご自分で染めたろうけつ染めも。
それで少し教えてもらいました。

その後、彼女がまた千葉に戻ってきたし、
私も越したために最後お目にかかることができませんでした。

やはりどこかでご縁があり繋がっています。



どちらかというと、あまりろうけつ染めは好きではないのですが、
チャンチンはそれほど重くもないし、揃える道具も100円ショップ
のステンのボールでいいし、七輪も火鉢もあるし、あまりお金も
かからないのがいいかな。

彼女に練習させているデッサンが、なかなか思うようにならない
ので、期間はまだ先の話ですから、私も少し練習しなければね。

チャンチンで染めようと考えた途端、
いろいろな思いが巡ってきた次第です。



昨日は、久しぶりに奈良から電話がありまして、
このところ久しぶりという人が多いのです。

まあ、どちらかというと、ああ、あの人どうしているかな?
しばらく連絡していないなあ、そのうち連絡でもと考えている
と電話が入ります。

有難いご縁がつながっています。

彼女もコロナに感染し大変な思いをしたようで、
染めどころではなかったようですが、畑がある
アトリエ兼別宅には通っていたようです。

シリアから彼が返ってくるとのこと
いつのまにと、これでは染色どころじゃない。
英語の勉強も始めたらしい。

日本国籍は持っている日本人ですが、日本語が話せない。
また、ご奉仕が始まったかな。

あなたの微笑みが、長年はぐくまれてきた
「沈黙の言葉」となりますように。

日本人特有の気遣いの精神ですね。

人のご縁に感謝し、祝福の祈りを捧げます。



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